声オタおにじくんの声学審問H!

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過激派で有名な(?)おにじさんが、声優の事を語ったり。

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原作者監修だけでは神アニメ確定にはならないし、否定意見を跳ね返せる盾にもならない

おにじと申します。

 

今回は、アニメの論というか、そんな具体的な話をするつもりはないが、こうなんじゃないか?みたいな話。

最初の引っ掛かりはチェンソーマンが出てくるけど、そこから具体的作品の話はするつもりないからよろしく(

アニメ作るのってむずそうって話なので、ざっくり言えば(

正解とかないよって話。あくまでも机上の話だけどね。

チェンソーマンは原作者ゴリゴリ監修らしいという話から

今期における『チェンソーマン』は、本当に馬鹿みたいに金がかかってそうな、もうどこ転がった所で売れるだろう、作品の出来が実際どうであろうと…くらい金と気合が入っているアニメである。

MAPPAが枠を買ってるとかで、規制とかからも解き放たれた?とか言う奴であり、今期の話題を席巻する(全然筆者のTLでは席巻してないので筆者は異常者なのかも…)作品である。

まぁこんなん売れなきゃおかしい(前述した通り絶対に売れるようにしかならないんだけど)作品な訳だが、このアニメにおいて、原作者の藤本タツキが企画・構成・脚本・絵コンテまで全て見ているということらしい。

まぁ労力エグそうなことしてるなあ、そりゃ連載隔週にもなりますわなという感じだが。

 

 

原作者が噛んでくれることは基本的に良いことだと思う

これから色々と否に近いことを書き連ねるので、大前提として置いておきたいことだが、原作者が噛んでくれることは良いことというか、ある程度噛んでくれることに越したことはないと思う。基本的に。

なんだかんだで原作者の意図というのは大事だし、その作品を作ってきたのは原作者なのだから、やってくれることで作品愛がない作品とかにはならないだろうみたいな、そういう安心感はあるわけで。

作品が大外れしない為の一つの手法として、原作者が絡んでくれることであることは少なくない。

アニメ制作スタッフが、きちんと作品を理解しておくことは大事だが、その助けになる可能性も勿論ある。

なので、別に原作者が一枚噛んでくれることに関してを、筆者は否定するつもりはない。噛むことはむしろ良いことになる場合がどちらかと言えば多いとも思う。

 

 

でも原作者が噛んだら絶対に良いアニメになるかと言ったら別

とはいえ、じゃあ原作者が噛んでます!監修してます、色々やってます!という事によって、絶対にその作品が良くなる。神アニメになるか、と言われたら必ずしもそうではないと思いませんかという話をする。

めちゃ雑に言えば、それだったらもっと神アニメ増えてるし、もっとそのやり方してるだろとも思うし。

なぜ原作者が噛んでいてもアニメが良くねえじゃん!みたいなことがあり得るのかという所を記載して終わる。この記事1見出しに対する内容短くない?(

 

 

原作が大きければ大きいほど原作者の意見が強くなる

まぁ、これは原作がデカい場合のお話。

そりゃめちゃくちゃ売れている作品というのは、大きな失敗を防ぎたいので、原作者の意見を聞くみたいな場合は普通にあると思うのだが、ある程度その関わる所の範囲、介入する所の限度みたいなものが存在しないと、逆に難しくなってしまう場合がある。

パワーバランスとして、原作者の意見が売れていれば売れているほどどうしても大きくなってしまう。

これによって、原作者の意見があまりにも通り過ぎるような状況になってしまうと、偏った作品が生まれてしまう可能性が高まってしまう。

これはアニメ以外でもそうだが、所謂一番偉い人とかのパワーが高すぎて、現場の事が考えられていないとか、実際に求められているものと異なるものがあてがわれてしまう…ということはあると思う。このような事態が、起きる可能性もある。

親会社がクソ!みたいなプロチームみたいな状況になるってことである。良いものを作れる現場が存在したとしても、上が正しい判断を出来なければ、良いものは出来ないのである。

 

このあたりは、どれだけのモノを原作者に目を通させるかとか、意見させるかとか、そういう明確なラインが必要な場合もある。勿論、全てを通させても良いのだが、それで偏りすぎないように出来るかとかは、アニメスタッフなど、原作者以外の力量も必要になってくるだろう。

 

 

原作者がなんでこの作品がウケているか100%理解している訳では無い場合がある

原作者というのは、そのものを生み出しているのだから、何もかもわかっているみたいな考え方をついついしてしまうのだが、別にそうじゃない例も存在する。

まぁそれこそ、別にこういう作品が好きじゃないけど、作品として描いている…みたいな例もあるだろうし、そうでなくて、作品のことをものすごく好きで、愛しているみたいな原作者であっても、それを読んでいる人との解釈が必ずしも一致するとは限らないのである。

結果的に売れているし、人気もあるけど、作者とファンでウケているポイントが違うとか、どこでウケていて、どこが必要で、どこはいらないのか(アニメ化するにおいて、何かしらは削らないといけない場合が多いからこのような書き方をした)みたいなものを原作者が選んだとしてもそれが必ずしも正解とは限らないのが、こういうアニメ作品の難しさではないだろうか。

勿論、正解率という所で考えれば、高いとは思うのだが…でもそれが必ず正解ということにはならない場合も残念ながらあるということは考えておかなければならないと思う。

 

 

そもそもアニメと漫画・ラノベは違うので魅せ方が違う

でもって、そもそも根本的な部分として、原作者は別にアニメに関して造形が深いわけではないという所は考えなければならない。

漫画やラノベと言った、絵であったり、文字であったり、そういう所には造形が深いことはほぼ間違いないであろう原作者であるが、それをアニメにするとなると、原作者は必ずしも正解を導き出せるわけではないという事。

漫画家や作家は、映像・アニメに関しての魅せ方とか、表現の仕方を高いレベルで理解している訳では無いからである。

漫画には漫画、ラノベにはラノベ、アニメにはアニメの魅せ方が存在する。

それは全て異なるし、原作をまるっきり同じようにベタ貼りすれば良いアニメになるかと言われたらそうではないのである。

その上で、アニメに落とし込む時にどのような演出にするかなどが大切になってくるわけだが、これを例えば原作者が言う通りに全部する場合、それが一番良いものである可能性は、原作者であっても思っているよりは高くないと思う。

 

はっきりと言ってしまうのであれば、例え原作者であっても、アニメに関しては素人なのである。それがどれだけアニメを見てようが、映画を見てようが、アニメを作っている人間、専門家には及ばないのである。

まぁそういうのが分かってないから、平気で俳優とか芸人とかタレントに声優させたりするんだけど、またこれは別の話だね…(

なので、アニメでどう映えるようにするかとか、そういうのは、やはりアニメスタッフの技量が必要だし、アニメスタッフもしっかりと作品を解釈した上で、意見が通るような状況でないと、理想的なアニメを作るというのは難しいのではないだろうか。

 

 

原作者が噛むのは大外れになりにくいくらいの効果が正直限界

まぁ、そんなこんなで、原作者が噛むという行為は、必ずしも大成功を収めるということに直結しないのである。

現実的に言うのであれば、大外れになりにくいかなあくらい。

スタッフに原作愛がなくてえらいことになりました!みたいなことは減らせるかもしれないけど…って感じ。

原作者が絡むことによってのメリットとデメリットは確実に存在し、映像化するにおいてのことが上手くハマらず、原作者が考えたことでも上手くいかない、不評となってしまう…みたいなことは普通に存在すると思う。

 

 

原作者が噛んでてもクソになる時はクソになる

別に、原作者が噛んでいたらクソになると言いたいわけではない。

ただ、原作者が噛んでいたとしても、作品が絶対に良くなるということはないし、神アニメになることもないのである。

逆にクソアニメとなってしまう場合もあるのである。

 

勿論、原作者が絡んでいるというのは、大きな要素ではあるし、『原作者が言うのだから』『原作者が絡んでいるのだから』という気持ちになるのは分からないとは言わない。

ただ、原作者が噛んでいるからと言って、アニメに対する批判を「原作者が絡んでいるのにそういう事を言うのか」とか「原作者が絡んでいるのだからこれが正しい」のようなことを言うのは不適切だと思う。

例え原作者が絡んでいようとも、否定意見を跳ね返せる無敵の盾にはならないのである。だって原作者はアニメにおいては別に最強の存在ではないんだから。

 

原作において、確かに原作者はその作品を作り出しているのだから、いわば神のようなものとという言い方も出来るかもしれない。

しかし、アニメ化においてはその神を神でいさせてはいけない場合だって存在する。作品においては一番かもしれないが、アニメにする上でのどうのとか、原作者が一番上にいるような状態ではないモノも出てくる。

その辺りのバランスとかを取って、いい作品が出来てくるのであって、原作者が絡んでいるだけでいいアニメになるわけではない。

絡んでいようがいまいが、良いアニメになる時もあるし、悪いアニメになる時もある。

原作あり作品でこういう事があると、否定側を厄介原作ファンと言ったりするわけだが、原作者が関わっているという事実だけでそういうのを否定してくる人間も大概厄介である。短略的であることが明らかだから。

 

原作者が関わっていることが全て悪いとか言っているわけではなく、それだけで良いということにはならないという事である。

色々な要素の中のあくまでの一つとして考えたほうが良いと思う。

まぁ一つなんだけど、割とこの要素は振り幅が大きい(大きな功績にも大戦犯にもなり得る)のは事実だとは思うけどね。

 

まぁ、どちらにせよ、チェンソーマンは出来が良かろうが悪かろうが、どっちに転がっても大衆というのは良いということにすると思うし、別に原作者が関わってようが関わってまいが、どっちでもそういう意見が席巻し、否定意見は叩かれる運命にあると思うが。(それが正しいか間違ってるかは知らん)

少なくとも大崩れはしないだろうしね。

どっちにしろED毎話変えるのは金かける所間違ってるだろとは思うけど(勿体なくない?w)

 

以上。