声オタおにじくんの声学審問H!

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過激派で有名な(?)おにじさんが、声優の事を語ったり。

声オタおにじくんの声学審問H!


おすすめ記事

関智一の『声優=“声色変える人”ではない』記事を声優過激派が見ながら、現代声優を考える。

おにじと申します。

 

声優の話題をします。

一週間というのは中々に色々な事が起きるものでして。

昨今の声優というのも、色々なネット記事が結構な頻度であがるので、中々に時事をタイムリーに捉えるのは難しい。

 

今週はなんと言っても鬼頭明里と保住有哉の文春報道が何よりも大きかったわけだが…

oniji.hatenablog.com

 

今回はもう結構前の記事になったが、おなじみのベテラン変態声優、関智一の記事を拾って、ちょっと見ていこうじゃないかというお話。

news.mynavi.jp

f:id:oniji:20210820134506j:plain

 

 

なんだこのタイトル!?声優過激派としては見逃せませんねえ

まぁ色々とツッコミどころしかないのはない。

そもそも関智さんは割と前からドラマとかやってはいたわけだし。

 

まぁ何にしても、声優過激派としては『声優=“声色変える人”ではない』という文言にどうしても反応をせざるを得ない。

まぁ関智さんの年齢的に考えて、まぁそういう事言いそうな気もするんだけど。

 

筆者はどちらかと言えば声優は声幅あってなんぼみたいな考えた方ではあるので…というか、そういうの含めて”声優過激派”を名乗っているわけで。

「おっ、声優過激派に喧嘩を売った記事かな?」というのが単純に思った所である。

 

…いや、別に声を変えないといけないとは今は思ってない(昔は思ってた時期はあったけど)ので、まぁ『=』ではないという意味では分からなくはないのだが、このタイトルというか見出しの付け方が単純に引っかかった訳である。

…まぁ、マスコミ君の事なので、タイトルの付け方で引っ掛ける系かなあとも思いつつ。

じゃあまぁ見ていこう。

 

ドラえもん』骨川スネ夫役から『ふたりはプリキュアメップル役、『呪術廻戦』パンダ役……何を“代表作”と呼べばいいのか。デビューから約30年の間に演じたキャラクターは数知れず、常に第一線で活躍し続ける声優の関智一。本業に留まらず、落語家への弟子入りやコミケへの参加、YouTubeへの進出など、新しいことにチャレンジする姿もたびたび話題となっている。

現在は立て続けに“俳優としての顔”を見せており、現在放送中のドラマ『ザ・ハイスクール ヒーローズ』(テレビ朝日系 毎週土曜23:00~)では主人公の父親役、劇中に登場する『秘密戦隊ゴレンジャーアカレンジャーの声をダブルで担当。声優界のトップオブザトップが今ドラマというフィールドに足を踏み入れる理由とは。この道を志すきっかけとなった『ゴレンジャー』との出会いや共演する美 少年の印象、豊かな人生を謳歌しているそのモットーを聞いた。

序文はこんな感じである。

まぁ関智一という声優は所謂レジェンド声優に部類される方だと思うし、この説明には何も間違いはないだろう。

 

そういえば最近は俳優の方向性もちょっと多めである事をこちらに記載されている。

まぁ所謂ベテラン声優が俳優としてドラマ等に出演する事というのは、それこそ大河ドラマなどでもある事であり、すごく珍しいことではない。

ただ、関智一はその方向性が最近ちょっと強いということ、また『ザ・ハイスクール ヒーローズ』では俳優と声優両方で出演していることが、やはり目を引く要素である。

というかまぁ、それだから取材になってるんだろうけど。

 

…とまぁこの辺の本筋のお話はしっかりされているし、それこそ関智さんはゴレンジャー世代である事もあり色々と書かれている。

今回はこの辺は飛ばすけど、ここが本筋なので、ぜひオリジナル記事で読んで欲しい。

ほら、あんまり引用すると怒られるだろうし…(

 

今回はお芝居のお話だからね、このブログ記事。ごめんね。

という事で2ページ目へ。

 

やっぱマスコミさんってタイトル付けるのヘタクソだわ

――役柄そのものへの反響も大きかったんですね。実は『桜の塔』脚本家の武藤将吾さんと田村直己監督に取材した際には「関さんの演技力にびっくりした」「本当に真面目で芝居が好きなのが伝わってきた」との声もありました。“お芝居”への思いを教えてください。

声優の養成所では「声優は声色を変えるだけじゃだめだ、ちゃんと演技を学べ」が講師の方の口癖で、実際に舞台演劇を学ばされていました。その経験から、僕は自分で劇団を作って30年近くお芝居をやっています。やはり「声優=声色を変える人」という印象が強いのか、ドラマを見た方に「お芝居“も”できるんだ」と言われることがありましたが、僕の中で声優と俳優は地続きにあるものです。

これがまぁ、表題にある『関智一、50代前にドラマ本格進出で反響「声優=“声色変える人”ではない」 』の部分なのだが、やっぱりマスコミのタイトルの付け方が下手くそとしか言いようがないというかなんというか。

 

”やはり「声優=声色を変える人」という印象が強いのか”とかを解釈してタイトルを付けたんだろうけど、

ニュアンスとしてはどっちかっていうと”「声優は声色を変えるだけじゃだめだ、ちゃんと演技を学べ」”の方向性が強いように思う。

なので、タイトルとして適正なのは『声優=“声色変える人”ではない』ではなく『声優=“声色変える人”だけではない』の方ではないだろうか。

 

”だけ”を入れないとそれこそ山寺宏一を代表とするあのへんを否定することになりかねないからね。

実際問題、声優というのは声色を変えるだけの仕事ではないし。

演技あってこそのものであるし。だから下手くそなんだよね、タイトルの付け方が。

なんか解釈がちょっとズレてるというか、記事ポチってもらいたいんだろうけど…

 

 

演技出来てこその声優だし、その通りだと思う

声優という職業は、まず第一に”声で演じる仕事”であるわけですから、まず演技ができないと意味がないし、それがスタートラインである事は恐らくは当然のことだと思います。

声優というイメージにおいて、どうしても声を変えるという所が強いですし、筆者もそういう声優がどちらかと言えば好きなわけですが、それはあくまでも前提条件として、演技が上手でというのがあるわけで。

というか、演技が上手じゃなかったら声優としてどうなのというか、それはもう声優じゃねえ!ってなりかねないからね(

 

関智一さんはやっぱりベテランであることもよりそういう事を言うのは理解できるし、この思想は大きくは変わっていないはずである。

やはり演技としての表現がついてこないと、いくら声が自在に変えられても演技が下手だったらそれは下手になってしまうので。

 

よりベテラン声優を思わせるのは、声優と俳優は地続きだという発言である。

ご存知の通り、声優というのは役者の派生であり、むしろ俳優などが悪く言えば片手間でやったり、こういう仕事しかないからやったりする所が源流であり、まぁ声優の扱いは低く、よくも悪くも役者派生。

俳優などが源流なのだから、そりゃ声優と俳優の距離というのは近い存在であり、同じとまで思われている時代もあった訳だし、そういう考え方はベテラン声優であるほどそうなるであろう。

それはある意味であたり前のことだし、そういうもんである。

ベテラン声優はそういう活動も多いし、当然のことであろう。

 

この関智一のインタビューは、関智一の芸歴とかキャリア等を考えると、その通りだし、そうでなくとも今でもそうであるべき理想的な所は変わらないと思う。

ただ、やはり時代というのは移り変わるものであり、今現在の声優業界・アニメ業界がその方向に向かっているかと言われると、そうではない所というのも散見されるのが、まぁ現実だろう。

 

 

現実として、そうではなくなっている部分はある

一つの現実として、声優の第一という所がそもそも演技でなくなってきてしまっている。

これは、今月公開を目標としている『声優業界現実チェック第二弾』において、より詳しく明記をする予定だが、そもそも声優の育成という部門において、昔と比べての時間の割かれる量が演技という部分が圧倒的に減っているのが現実だ。

 

理由としては、他にやることが増えたから。

歌にダンスというより現代声優に求められる技能は勿論だが、容姿に関しても時間を割かれる場合が多く、単純に演技に割かれる時間が減った。

 

これはいわゆる演技における発声方法などの基礎的な所まで雑に行われるようになってしまう例というのが実際に存在してしまうという事であり、そもそも声優としての一番求められる所への注力が昔ほどされていない、されていないから良い演技が出来る声優が母数が増えているのにも関わらず増えてこない(実際にはこんなに単純な話ではなく、多くの原因が積み重なって現在の声優の現実があるわけですが、ここではとりあえず雰囲気としてそうだと理解して欲しい)

 

というのが現実である。

…まぁこれが現実だと言っても、素人学生である筆者が関係筋から漏れ聞こえている話をしても信用しない人間もきっと少なくないだろうから、今と昔の違いというのをもう少し現実ではなく、理論的なアプローチでも書いておこう。

 

 

声色を変えられるのが声優というイメージと、それ以前の問題にぶち当たる現代声優

声優においての、雑なイメージというのは七色の声を出せる的なモノである。

それは、たしかに声優に置いての代名詞の一つではあるし、それは一つの理想的な声優像だと筆者も思う。

恐らくこのイメージは山寺宏一などの声優が作り上げた部分もあるのだろうが…

このイメージを雑に受け取り、全ての声優に適用できると思っている現在の地上波テレビのやり方には確かに疑問符が浮かぶし、声色を変えるだけが声優ではない、まず演技があってこそだ!というのは正しいだろう。

 

ただ、それにしても現代声優において、声色を変えられない声優が増えすぎたような気がする。

勿論、声で勝負するんだから、声を変えるというのはどうなんだ!という極端な意見もあるかもしれないが、声色を変えるというのは変えた上でしっかりと演技が出来て、声としてのクオリティも大きく下げずに出来るからこそ声の引き出しとして認められる所があると思うので、ちょっとそういう極論はお呼びではない。

 

昨今の声優業界は、人が増えた事もあり『この声はこの人!』みたいな選び方も増えてきた気もする。

これによって、本来いろいろな声を出せる有能声優が、その声をめったに使われないという事例も増えてきているように思う。

逆に言うのであれば、極端な声色が出せる声優の軽視が起こっていないだろうか?

 

ここで改めて提示しておくが、あくまでも声色を変えられないのはどうなのということを言いたいわけではないということ。

別にそれほどそういうのがなくとも、生き残ってきたレジェンド声優がいるように、それが全てではないし、演技がまず第一だ。

しかしながら、そもそも何をやっても同じような声か、違うと思ったらボソボソ無感情にしゃべるかの二択だったり、あっても3パターンくらいのテンプレートしかなく、それでいて同じ声でもキャラクターとしての違いが出せずに、全部同じ声…みたいなのだったら、それは声色がなくてもいいとかには該当しないし、そもそも演技としてどうなんだという話になるわけである。

 

声色を変えるだけが声優ではない、演技が大事。というのは、テンプレートの声でやっいて良い言い訳にはならないはずである。

 

演じるキャラクターというのは多く存在して、それぞれ色々な性格や、特徴というのがあるはずで、それに同じものというのはよほどのテンプレートキャラクターでもない限りはないはずである。

もし、同じような声で演じるとしても、そこに演技でキャラクターとしての違いを見せるべきだし、それが声優であり、源流で言うのであれば役者ではないだろうか?

そういう違いは、喋り方の緩急であったり、声の大きさの強弱などに始まり、色々な微妙な所で変わってくるように筆者は思う。

 

現代声優、そういうのがちゃんと出来る人が少なくなってしまっているのではないだろうか?

 

そして、そこの最初で躓いている時点で、なかなか声色を変えられる声優というのは出てこないし、そもそも業界がそういう声優を最早求めていないまである所もある。

 

声優において、声色を変えられる、色々な声の引き出しを持っているというのは、ある意味で究極な所はあるわけだ。

声優というのは、演じる時に顔が出ない職業だ。これが俳優がドラマなどで演じる時と大きく、そしてこれが根本的に違う所である。

 

だからこそ、容姿に囚われることなく演じられるのが、声優の大きな利点であったはずである(容姿クッソ重視するようになった業界に石をぶん投げながら)

そういう利点があるからこそ、女性声優が少年役を演じたりするのがまぁ一番わかり易いように、様々な演技をすることが環境として声優は出来ると、声優しかこういう事は中々出来ないから、声優のスキルとして唯一無二の感じが出ると。

若い声優がおじいちゃんやれるし、ベテラン声優が少年少女をやることだって出来る。

それは声優にしかできない事だし、そういう事が出来るからこそ、声優というモノに筆者も惚れ込んだ所がある。(村川梨衣とか言う声の引き出しがやべえ部類の人で声優オタクの扉を開けた人)

 

この記事でテレビの取り上げ方がとか、声色を変えるだけじゃないというのを引用RTとかリプで見たりしたが、

それはそのとおりだし、関智一は何も間違ったことを言っていないのだが、そもそもそういう所に達せている現代声優が、例え人気声優と呼ばれる声優でも怪しいと筆者は思う。

関智一と同じ土俵に上がれていない、というのを、関智一以外が言うことは関智一に失礼かもしれないし「そんなことない」と言われるかもしれないが、

少なくとも筆者のバカ耳にはそう聞こえるので、どうかお許しを。

 

 

俳優と声優、道が別れてきていると思う

先程、声優の声幅の説明において書いたことだが、

声優は演じる時に姿を見せない。(そりゃ朗読会とかイベントとか、そういうのは例外ですよ?)

声優というのは、あくまでも自分の声だけで演じなければならない職業である。

勿論源流としては役者であるし、俳優である。それは筆者も承知している。

しかし、この違いというのは決して小さなモノではなく、時代に伴う細分化として、俳優と声優の道は別れてきていると筆者は考えている。

野球とソフトボールくらいの違いだったものが、だんだんとサッカーとラグビーくらいにまで変わってくるんじゃないか、それくらいの変化を感じている。

 

俳優という者は、自分の体も全て使って演技する。

声優という者は、自分の声だけを使って演技する。

 

…という書き方をすると、質問箱で匿名でなんかキレられるので、もうちょっと分かりやすくこの違いを明記しよう。

 

俳優という者は、演者が演じる時にする動きや、表情、姿がこちら側(演技を見ている側)に全て見える。

例えば手をぎゅっと握っているのが見えると、力が入っているとか、そういう風に見る側は感じるし、表情も見えるので、この人はどういう感情なのかはそのまま額面通りに受け取れば良い。

簡単に言えば俳優は、演者=キャラクターなのである。

 

一方で声優はという者は、演者が演じる時にする動きや、表情、姿はこちら側(演技を見ている側)には基本一切見えないのだ。

特番などでアフレコ現場が映る時や、朗読会、イベントなどで見ると、実際は声優は動いている時はあるし、表情なども変わっている事が多く、身体を使った演技というものはしてはいる。俳優と違うのはマイクから基本的に動かないことだけとも言えるかもしれない。

ただ、根本的に異なるのは、それが演じるアニメであったり、例えそれがナレーションなどであろうと、その姿は見えず、声だけの情報しか声優は伝えることが出来ないのである。

アニメに限定するのであれば、それを代替するのが絵、アニメである訳で。

アニメの中のキャラの動きや、表情という所を我々は見るわけで、それを見て怒っているとか、嬉しそうとか、そういうのを理解するわけである。

簡単に言えば、アニメにおける声優は、演者≠キャラクターであり、演者+アニメ=キャラクターなのである。

 

恐らくこの違いは当初からあったモノなのだが、その違いが演じる上で大きな違いを今や生み出していると筆者は考える訳だ。

これは、こういう演じるキャラクター達が、そんな簡単な、単一な感情表現ばかりしているわけではないという所も関係してくる。

 

普通に現実でもそうだと思うのだが、感情を割合にするとして100%嬉しいとか100%怒るとか、そんなオンオフスイッチのような感情では人間はないわけで、それは創作物においてもその場合が多い。

 

例えば、怒りながら悲しんでいるという描写があるとしよう。

 

俳優にしろ、声優にしろ同じような感情を演じる際に、全く同じ演技をしたとしよう。(俳優は身体が使えるから動けるので、実際には全く同じ演技というのは無理なのだが、まぁ俳優として演じている声だけを声優側は使うみたいな考え方でよろしく)

この場合、しっかりと見ている側に伝わるのはどちらか?

 

全く同じ場合、これは俳優となるはずである。

なぜか?前述した通り、演者=キャラクターに俳優はなるからである。

 

演者の動きや表情がそのまま見えるから、このような複雑な感情も理解しやすい。

嬉しそうな声を出しながらも、どこか表情は曇っているように見えるとか、身体の動きに落ち着きがないとか、そういうのがそのままストレートに見えるわけである。

 

こういう言い方をすると、アニメでも絵があるからそれが代替となるんだから変わらないじゃないか!という声も出てきそうだが、それは違うだろう。

こういう事を言うと、アニメを描いている人間にぶん殴られそうなのだが、勿論アニメの表情や動きは代替になる部分はあるのだ。あるんだが、それはどこまで行っても完全な代替にはならない。どこか抜け落ちてしまうのだ。

だって演じている人間の表情や動きと、キャラクターの表情や動きが100%合致する事は、例えオフレコ(演じた後にアニメを作る形態)であろうと不可能だからだ。

絵と出来るだけ同じように演じようとしても、100%の同調は不可能である。

演者の動きや表情、些細な動きがそのまま見える俳優と違い、声優はそれが見えない。

アニメは演者の動きや表情の代替となるわけだが、それは不完全で、細かい所は抜け落ちてしまう。

 

だから、動きがある俳優が、「ほれ、声優やってみろ」と言われて、やたらと感情が薄い演技をするなとか、棒読みに聞こえるなとか(まぁ棒に聞こえるのはそもそもアフレコに不慣れとか、当人の技量不足の点もあるだろうが)、演技が薄い、心に伝わってこないとか、そういう感想を抱くのは、

俳優の演技では見えている物が一部使えず、声だけの情報になって、そこに代替としては不完全な絵が合わさると、俳優では100出せるものが、80とか、90になってしまって、物足りないと感じてしまうからだと思う。

極論な話、これで普通に俳優が声優を皆できるのであれば、声優なんて職業もういらないわけで。

でもそうじゃないし、そうならないのは、そういう所での差異がもうごまかせないくらい大きいからだと筆者は考えている。

 

では、声優はこの不完全となってしまう所を、どうやって補っているのだろうか?

…いやまぁ勿論声しか使えないんだから、声に決まっているんだが。

 

先程、俳優が演技をした際に、どうしても一部が欠落して、普通に演者の姿や動きがあれば100の演技の声の部分が、アニメなどになると80や90になってしまうという事を書いたわけだが。

 

これを声で埋める…という事は、書き方は悪いが一定大げさに声で演技をするという事である。

 

こういう言い方をすると、あまりいいように見えないかもしれないが、端的に言うとそうなってしまう。(難しい言い方をするなら、声での感情の情報量を上げるとか、そういう言い方もできるとは思うが、キモいでしょそれはそれで)

 

これは、まず非常に簡単で分かりやすい例で言えば、なにかに気づいた時などによく使われる、文字で言う所の「ッ!」とか「――ッ!?」とかである。

これ、めちゃくちゃ分かりやすく声優は演じる。(俳優もその部分はあるけど、明らかに声優のほうが大げさにやる)

こういう所は、アニメなどの絵での表現の手助けがあっても、その衝撃感を伝えるのが難しい所の一つである。

 

こういう所で、声でその切迫感とかを出すためには、それだけのある意味で日常生活ではありえないくらいの反応…大げさに演じる必要性が出てくるわけである。

 

勿論、こういう分かりやすい所以外でも、常にこういう声優におけるアニメ等の演技ではそういうものが求められる。

それは特に感情表現における所をより分かりやすく、声だけでも伝わるように、動きや表情が見えなくても伝わるように(アニメでは動く絵の補助が入ったり、ソシャゲでは立ち絵があったり、ドラマCDでは本当に補助がなかったりと、様々なパターンがあるが、基本例外なく)するのが、現在の声優の理想的な演じるという事ではないだろうか?

 

声優という職業において、声色がどうしても注目されるが、『声だけで演じる』という事が身体を使って演じる事と、どれだけ違う事で、それが出来ることが如何に凄いことなのかという事を、今一度考えておきたい。(そういう意味で、ベテラン声優が舞台とかを例にあげるのは、あっちは身体も使うけど、声の割合が強めで通ずる所があるからだろうなと思う)

 

声だけで、そのキャラクターがどういう感情なのかというのを伝えるのは非常に難しい。

ジェスチャーゲームで動きだけで伝えるのは難しいが、声だけで全てを伝えるのはまた別の意味で難しいのである。

 

それを声の緩急であったり、息の使い方、声の作り方、自然と不自然のバランス(大げさにやりすぎると作り物感が出てしまうので)とか全てひっくるめて、出来るのが声優であるし、だから声優って必要なんだと思うし、声優の演技が心に刺さる時があるんだと思う。

 

これが声優という職業が、一種俳優と異なる所に行っている所。

武器が一つしか使えないから、その武器でどうやって演じるのか?そこが細分化され、狭く深くなっているのが声優であるはずである(最近は演技軽視でそうでもなくなってくるわけだが)

だから、逆に今の現代声優をドラマとかで使うと、周りから浮く場合があるのだ。

以前、内田真礼がドラマにちょい役で出たことがあったが、アレとか割と顕著で、周りに対して声が作られすぎているとか、大げさ過ぎるとか、そういう風にドラマという環境だと見えてしまう場合がどうしても起きてしまうのだ。これは、もう一定仕方ない事だし、むしろ声優としてそうあるべきまである。

 

…まぁ声優はそっち方向が求められ過ぎなのもこれまたそうであり、それこそ『月がきれい』みたいに自然な演技を声優に求める機会というのも必要だし、その引き出しも本当は声優には持っておいては欲しいのだが。

ただ、基本的に今求められているのは前述した通りの演技法だと思うので…

 

だから筆者は現代声優は俳優しないほうが良いと思うし、俳優は声優しないほうが良いと思っている。

よく大衆アニメで俳優や女優がすると、声優ファンは文句を言うわけだが、これは普通に正しい所ではある。

ただ、逆に声優がドラマ出たりすると、声優ファン一部歓喜したりするわけだが、これは違うと思う。

 

結局声優が俳優をやって、本家俳優を超えられる、もしくは肩を並べるのは今は難しいし(演じ方が違うから)

俳優が声優をやって、本家声優を超えられる、もしくは肩を並べるのは同じように難しいわけである(演じ方が違うから)

まぁ神木隆之介のような、子役出身で昔から声優経験があって、割と遜色なく演じられるようなイレギュラーは存在するし、

今の演じ方とは違う部分も多く求められていたベテラン声優であれば、俳優の中に混ざっても遜色ない演技をする場合はあるが、それはあくまでも例外と言えるものであり、基本的にはこのはずである。

 

という訳で、まぁ今は声優と俳優は違う所にいると思う。というかそこが相互で簡単に出来るなら、とっくの昔に声優は廃れているまであると思う。俳優の方が、テレビに出るし、宣伝もしやすいんだし。

(まぁその声優が、今アニソン歌手の場所をソロアーティストデビューでめちゃくちゃ奪っているのだが、それはまた別の話なので今回はスルーします)

 

 

後半は、記事の内容から派生しての筆者の考え的な所が強くなりすぎてしまった気がするのはお詫びしたい所だが、今回の記事の話は、それだけ深堀りできるような内容であったと筆者は思う。

 

実際、筆者も声色を変える声優が好きではあるし、顔を演技時に出さない声優において、それは真骨頂の一つであると思う。

しかし、それはあくまでも『演技が出来て』初めて成立するものであり、まず何よりも演技、演技が良くなければ声優としての有能への一歩は、そもそも声優にはなれないという所があるはずであった。

 

源流である役者という所から考えれば、何をまず重視するべきなのかは分かりきっていると言えば分かりきっている話だが、どうしても声色が真骨頂の一つで、声優においての特徴があるがゆえに、そちらに目を向けすぎてしまい、そういう雑な扱われ方をしてしまっている事もまた事実であり、関智一の話というのは正しいものだと思う。

 

関智一の言っていることは間違いないし、間違いなかったはずである。

少なくとも彼が声優として勉強している時代は間違いなくそうだっただろう。


しかし、もう今の声優業界はそっちの方向を恐らく向いていないし、状況は変化し続けているとも思う。

それは現代声優における技量的な現実という所もひとつとしてそうだし、声優と俳優というモノが簡単に反復横とびできるような距離ではなくなってきている事もそうである。


筆者としては、声優という職業と文化が本気で生き残りたいのであれば、今の方向ではきっとないだろう。

声優と俳優の距離が離れてくることはある意味で声優という職業の地位が上がる要素だと思うので、それは良いとしても、それでいて演技を軽視している…演技に使うべき時間を他に割いているのはいかがなものだろう。

あと常識を教える時間もそういうのに割かれているので、声優の地位向上も相まって、声優が週刊誌の記事を飾る事は爆発的に増える可能性だってあるわけである。

 

…まぁもしかしたら、俳優と声優がもう一度地続きになる時は来るかもしれない。
ただ、その時というのは恐らく声優という職業の意味がなくなる事で、俳優に呑まれる時のような気がする。

 

…あ、タレントか、アイドルの方に呑まれる方が、適切になったりするかもしれない。

 

以上。