声オタおにじくんの声学審問H!

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過激派で有名な(?)おにじさんが、声優の事を語ったり。

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批判・批評と誹謗中傷の区別を付けよう -声優事例等を例に批判批評を考える-

※当記事の大半の内容は、4月から5月にかけて書いたものです。
当ブログ結構あるストック記事の一つでしたが、6月1日に、佐藤利奈Twitter案件が出たので、出すタイミングはここかな。という感じで投稿となっております。
そのため、一部導入等最新の状況に整えている以外は、4月5月に書いている内容ですので、そのあたりに関してはご了承頂けると幸いです。(基本的に内容に関してはこの一月で受け取られ方が変わることはないと思うので大丈夫だとは思うのですが一応保険としての注釈でした)
 
ちゃろ〜、おにじです(激寒)
 
 
今回は、たまにある筆者自論系統記事である。
当ブログをこのはてなブログに移転させて、定期的な更新を続けてもう一年以上経過した。
昨年は150記事くらいを更新しており、"声オタ"とタイトルに付けながら割と色々な記事を書き続けている所はある。
 
とは言え、やはり中心としては声優という題材が多い訳で(まぁエロゲも多いけど)
その中で、やはり読者側に持たれている印象としては恐らく『批判・批評』という所があるのだと思う。
 
当ブログ…というより筆者は普通に何にしろ臆せず批判・批評をするような所がある事は自覚している。
とは言え、割と褒める時はうんと褒めるタイプだと思うのだが、あんまりそこの印象持たれてなさそうだなあとも思っている。
 
筆者が批判・批評する事に対してよく思っていない人間も勿論いるだろう(というか匿名箱でそういうの見るのでいる)
まぁ一素人である筆者がそんな物言いを出来る立場なのか?とか言われれば確かにそういう面がある事は否定する気はない。
 
また、やはりここ数年どこにでも言われるのは誹謗中傷に関しての問題であろう。
芸能人等においても誹謗中傷に関しては問題とされ、それが原因によっての自殺も起きているとされている。
声優の誹謗中傷事例に関してもいくつかあるが、6月1日の佐藤利奈が以下のツイートをした事によって話題となった。

…声優粘着年単位と言えば、東山奈央とか、まぁ色々いたと思うんだが、サトリナにも存在していたんだなとか(そんな声優のリプライ欄とか見ないしね…)

言うて、誹謗中傷云々言われ始めたのって割と最近の印象もあり、こういう問題が表面化する度に「誹謗中傷は行けない」というまぁ至極当然な意見が出るわけで、実際その通りだと思うのだが。

 
ただ、『批判・批評=悪』…批判・批評までまるで誹謗中傷のような思考をしている人間が当ブログに関わらず多すぎるような気がする。
 
今回は、『批判・批評=悪』ではないというお話。
筆者もこういう他の人間にとやかく言う時には割と気をつけている事もあるので、そういう話もしつつ、批判・批評をする事を恐れるべきではない、批判・批評をしている人間をしているというけで糾弾する事が如何に理解できてないかを示していきたい。

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批判・批評にも種類が存在する

批判・批評、及び評価というモノを我々素人が行う事自体、不毛と言えば不毛なのだろうが、消費者として提供されるモノを理由なく肯定することしか出来ない"イエスマン"になるよりは余程自分の意見を持っている方がマシだろうと筆者は考えている。
ただ、だからと言って全ての批判が受け入れられるべきとか、批判されるべきということでは無い。
これは別に批判だからということではなく、称賛などの褒める側にも通づるものがある。
 
それは非常に感覚的であったり、理由がなかったり、理由があまりにも抽象的な意見である。
『好きに理由なんていらない』とか言うものだが、結局理由なく好きになるものなんてほとんど無いのが現実である。
好きにも嫌いにも"ここがこうだから好き"とか、"ここがこうだから嫌い"とか言うものが確実に存在するはず。
 
別にその好き嫌いや、褒めること、批判したりすることを自ら発信しないのであれば、それに理由が絶対に必要とまでは言う必要はないし、それはそれで良いと思う。
発信することが正義というわけではないし、そういう発信をしないのであれば、そこまでの理由を持ち合わせていなかろうと、怒られる義理はないはず。(まぁそれでも持っていることに越したことはないけどね)
ただ、割と積極的にSNSやブログでそういうものを発信していくのであれば、『理由』という要素がないといけないだろう。
それは、伝える上で根拠がないと発信者側にすらなれないまである…という事である。
それはもう自己満足の域でしかなく、オナニーしてるようなもんである。
別にオナニーしてたいのであれば勝手にしていればいいが、そういうオナニーしかしていない人間ほど他人の意見にはやたら噛みつく割合が高いのがホントもうアレである。
自分の意見を出したいとか、他の人の意見に自分の意見をぶつけたいのであれば、一定以上の論理的な部分がないとただの自分勝手でしかない。
筆者が『批判・批評するだけで批判されるべきではない』と言っているのは、この論理的な部分がある程度存在する意見に関してであり、そうではない意見のことは指していない。
 
物事にとやかく言うのであればこの辺は当然であって欲しいのだが、現実は異なるし、そもそも他人の意見がどちらなのかを理解できる目も持っていなかったりするからまぁどうしようもないと言えばどうしようもないのだが。
それが本当に分かっているのであれば、色々と示した上での意見に噛み付くような愚かな行為は普通は出来ないはずなのだから。
 
 

"正しい批評"をする努力をしよう

ただこういう"根拠の無い肯定・否定)というのは、別に筆者も絶対にしないと誓えるのか?と言われると簡単には頷けない所はある。
 
こういう意見は感情に引っ張られてしてしまうモノが多い。
意見する対象に対して『好き』の延長線上に根拠の無い肯定や、理由のない擁護というモノをしてしまう事もあるだろうし、(この延長線が続く果ては信者)
『嫌い』の延長線上に根拠の無い否定や、理由のない叩きというモノがあったりするだろう。(この延長線が続く果ては熱烈なアンチ)
こういう物というのは、誰しもやることであって、それ一つで咎めるのは厳しすぎる所はあるとは思う。
 
だからこそ、そういう事をしないようにする努力というものは常に行っていかなければならない。
まぁそういう事をやっていくとなると基本的に文字数制限があるTwitterが向かないと言えば向かないのだが…(だから基本的にそういうのは筆者はブログに書くようになった訳だが)
ただTwitterにしても、ある程度ちょっとでも理由を書いておく事は、自分を守ることにもつながるはずである。
自分の考えというのは、文字などでは100%は伝わらないモノである。
その上で、そういう理由を割愛してしまうと誤解されてしまう原因にもなり得るので、そういう意味でも、そういう根拠的な所はあった方が、積極的な主張をするしない関わらず良い所もあると思う。
 
「好き」「嫌い」「良い」「悪い」「上手い」「下手」というような端的な表現における感情に対して、理由が付くだけで、納得できる場合もあるし、納得できなくとも、一応考えてのことである事は示せる訳である。
実際問題、信者やらアンチというのはもはや理由もなく…みたいな所が存在するわけで、そういうのと一緒にされたくないのであれば、何かしらの理由はつけるべきである。
それも、詳細であればあるほど本当は望ましい所。主観になる所はあるが、どういう所がどうだからこう…みたいなモノがあるのと、ないのでは大きく異なるはず。
数字というデータを示せる場合はよりわかりやすくなるだろう。
 
そういう物をちゃんと提示する努力を続けることが最も大事だし、努力の上で実行していくことが必要。
そうでないと頭ごなしの否定であったり、信者的肯定になり得てしまう。
 
こういう時「批判している俺かっけー」とか思ってるんだろ?とか言われるわけだが、
最低限根拠なく批判と肯定をしている連中よりはかっこいいと思っていると答えてやればいい。
筋を通している意見に関して内容ではなく、批判している行為に対して物事を言ってくる人間などろくな物ではないので、普通に関係を切る事も考えればいいだけのことである。
意識をすること等最低限であり、もっと色々と求めたい所だが、まぁ最低限を守ることも大事なはず。これすら理解できない人間などろくな奴いないだけである。
 
 

”批判”と”誹謗中傷”は全くの別物である

昨今の情勢において、”誹謗中傷”というものに対しての目が非常に厳しい。

まぁ、この誹謗中傷問題、あらゆる事を”誹謗中傷”という物に交えすぎな感は否めないし(自殺の事例が起きた場合に原因は誹謗中傷って言うの最近多すぎやろ、他にもあるんちゃうんか?ってたまになる)、ネットという環境において、”誹謗中傷”という物をなくすのは無理だろうと筆者は考えてはいるが、良くないことであることは間違いないだろう。

間違いなくいけないことではあるし、無くなるべきではある。

それで実際に問題が起きているわけだし、自殺案件などがある以上、許してはならないと思う。(でもなくなるとは思えないなというのが正直な感想)

 

各所誹謗中傷に対しての対応というのは厳しさを増している状態であり、アミューズなどはその方向性を強めている印象。

声優業界では、やはり響の進藤あまねの事例が記憶に新しい。

他人に対して、人格否定であったり、殺人予告など、そのような事をすることは間違いなく良くないし、そういうものは糾弾されるべきである。

 

だが、ここにおいてちゃんとしたライン引きがほしいのが、”批判”と”誹謗中傷”の差である。

 

当ブログはどうしても基本声優ブログの為、進藤あまねの事例をどうしてもこすり続けてしまい、進藤には大変申し訳無いのだが擦る。

(この事例、客観的に見ても分かりやすいので扱いやすいのが悪いのである。

進藤当人に明確な思いも筆者はないし、下手だなあとは思うが、嫌いとかそういう訳ではないのだ。いや絶対に好きではないが。

とにかくこの事例は誹謗中傷云々に関して扱いやすすぎるから使うだけで…)

 

進藤あまねの事例に関して、確かに行き過ぎた誹謗中傷と取れるモノが複数存在したことは事実であるし、そういうものが良くない事は当たり前の話である。

ただ、当初の進藤あまねは今よりも本当に演技に関しても歌に関しても褒められる点がないレベルで、2020年代にこんな声優が仮にもコンテンツの追加のセンターで出てくるとか、ブシロードは頭が00年代以前に停滞しているのか?という出来であったことを念頭に置かなければならい。

 

別に『BanG Dream!』の声優が声優全体の中で上手いかと言われればそれはそれで個人の意見があるだろうが(今回の話の本筋とずれるので割愛)

にしても、その中でもダントツで進藤あまねが…というより、Morfonica全体の演技歌唱能力が文字通り終わっていたわけであり、批判されるのは有る意味で当然のことではあった訳である。

とりわけ歌唱を担当する上に当時現役中学生、入所1年以内、カラオケ歌唱に酷い演技でセンターに置かれてしまった進藤に批判が集中したわけである。

ここにおいて考えるべきなのは、『進藤含めMorfonicaの技量に関して明確な不安がバンドリ内ですらあった』という事項である。

結局の所、批判されて当然といえる状況が発生した場合に、全ての批判を”誹謗中傷”として言ってくる人間がどうしても現れるのがややこしいというか、アホな所である。

 

何も全て事実を言えば誹謗中傷ではないという事はないのだが(ブスでもブスって一々言わなくても良くない?みたいな事)

今回の事例に関しては、声優という演技を中心とする職業において、演技が下手くそな上に、まだ歌唱力があったら今の風潮的に許される(筆者が許すと入ってない)のにそうですらない、しかも全体的に他の人間のレベルもお察しとなれば、そりゃ批判されるし、「下手くそ」と言われることは誹謗中傷ではなく、事実であり批判である。

それは、他と比べた相対的な理由でも良いし、単独での絶対的な理由でもいいが、残念ながら下手くそなのは事実だし、”中学生だから”とか言い訳並べられても、

出てきた時点で年齢は関係な上に、声優においての芸歴と年齢というのはそこまで重要視されないのにこういうときだけ都合よく持ち出されても困るわけだし、今の人気声優も表に出てきたときが中学生なんて声優は割と存在するわけで、それが「下手くそ」という言葉を否定する特効薬にはならないわけで、ましてや誹謗中傷ではないのである。

 

まっとうな批判と誹謗中傷を同一視し、肯定的な意見しか求めないというのは信者の始まりであり、如何に自分の頭が悪いかを露呈しているだけだろう。

別に進藤あまね含めMorfonicaを好きである事は個人の勝手なのでどうと言う気もないが、あの初期値から多少うまくなっただけでうまくなったとか言わないで欲しい所。そらGGGGGからFFFFFFにはウマ娘でもパワプロでも簡単に上がるだろうよ。

 

 

常に『好き』を疑い、『嫌い』を疑おう

肯定と否定というものは非常に難しい物であり、簡単にできるものではないが、やろうと思えば出来てしまうというややこしいモノである。

色々な物に意見を述べる場合、常に考えておくべきことは、自分の中の『好きな物』と『嫌いな物』を疑う事である。

好きな物が本当に好きな物であり続けているのか、嫌いな物が本当に嫌いなものであり続けているのかというのを有る意味で監視し続けることが大事。

 

言いたいのは『好きな物だから批判しない』であったり、『嫌いな物だから肯定しない』という事は良くないという事。

好きな物であっても、自分にとって嫌な物であたり、良くない動きだったらちゃんとそれには「NO」を言うべきだし、

嫌いな物であっても、それが良い物になっていったり、言い動きをしたらそれはちゃんと「YES」を示してあげるべきである。

 

意固地になるよりも、ちゃんとその場で評価して「これは良い」「これは悪い」と手のひら返しする方がよほど良いと思う。

それですぐに好きな物が嫌いな物に、嫌いな物が好きな物になったりするわけではない事も多いし、自分の好き嫌いは置いておいて、その事例に対して良いか悪いかというのを、「こうこうこうだから好きだけどこれはダメ」とか言えば良いわけである。

 

主張を繰り返す人間として、物事をきちんと理解した上で、意見を持つことは大事なはずである。

これは別に主張をする人間ではなくても、大事なことではないだろうか。

肯定するにしても、否定するにしても、そこにちゃんとした理由を提示したりすることが大事であるし、そういう事を心がけることに越したことはない。

 

そういうのなしの頭ごなしの奴やら、信者の根拠のない擁護やらとかは大いに叩かれていいと思うが、上記のようなモノがちゃんとされている物に対して批判したりする人間はもう放っておけばいいだろう。

 

以上。