※前提
当記事は、2021年頃に筆者が下書きした後、結局日の目を見ることがなく、今日までに至った記事を、なんか改造して出す感じの記事です。
当時の筆者の記事はなんかやたらキレていたのだが、それはほぼ削った。なんでキレてたのかも覚えてないくらいには前の記事なんだよな元々(
おにじと申します。
論じる系の記事最近多くない?って感じではあるのだが、まぁこの記事の6000文字くらいは2021年に書いたやつやし許してくれ(
ということで、色々と論じることが多い当ブログだが、最も全体的に投げる、喧嘩を売る記事というのがコイツだったりする。
まぁこの当時何にキレていたんだと思いつつ、言っていることはわかるので、今回はオタクの方向性として、もう少し好きを疑えという話をさせて貰えればと思う。
- 前提
- 何も考えてない人間が多すぎでは?
- 消費者の妥協
- 趣味でストレスを感じたくなければ、それこそ好きを疑わなければ
- ただ、批判も理由のあるものでなければならないのはそう
- 良いモノに良い、悪いモノに悪いと言うだけのことはやってくれ…
前提
いつものじゃねえか。
これを書いておかないと分かってもらえないからシリーズとして、前提を。
今回の記事に関して、非常に消費者オタクをこき下ろす記事となる訳だが、別に何かを好きであることを否定している訳では無いという所を前提に置いて欲しいと思う。
好きになることは普通に自由だし、そこに理由とかいるか!と言われると、正直「理由はいるだろ」とは思うが、強く否定することは難しい。理屈じゃない所もあるし。
ただ、だからといって何も考えないのはどうなんだという話を今回はしたい感じである。
所謂、何でも肯定してしまったり、否定が出来ないのを信者とか、盲目とか言うわけだが、大体「自分はそういう人間ではない」と思ってしまうものである。
ただ、自分がそうではないか?というのも考えるべきだし、自分の周りがそうではないか?というのも、もしかしたら考えた方がいいかもしれない(まぁまずは自分がそうじゃないかが一番だが)
そういうのもあり、今回は自分が信者とか、盲目とか言われないようにしよう。という所を論じていく感じで行こうと思っている。
何も考えてない人間が多すぎでは?
昨今のオタクというのは、あまりにも何も考えてない人間が多すぎる…というか、人数が多いからそういうのが目立つ所もあるのだろう。
『可愛い』『良い』『最高』『尊い』『草』『優勝』『強い』…
そもそも褒めるにしてももうちょっとマシな語彙はないのか?と思うようなことが…というか、なんならもう画像を貼るような連中が多すぎである。
まぁ趣味に関することだし、他にもっと考えることがあるからこれくらいは…というのも分からないとは言わないが、それにしてももうちょっとどうにかならないのか?という感じがある。
の割に布教とかもするので、具体性とかいうものがないのかみたいな所がある。
ということで、もうちょっと考えようぜという話をするわけである。
消費者の妥協
最近のオタクは『これはこれで』とか『こうである事で応援のしがいがある』とか言い出すのだが、そういう時って基本的に提示されているモノのレベルが低い傾向にあるように思える。
声優とかの場合でそういう時に言うのは『まだ〇〇歳だから』とか『こういう方が成長が見れる』とかそういうなんというか、それっぽい理由である。
まぁ確かに成長とかの部分がある場合もあるとは思うのだが、それにしても微妙というか…成長云々以前の問題の場合でもこういうことを言われる場合もあるのが元所づえある。
これが、言わば消費者側の妥協という所だろうか。
まぁ実際問題、ものを提供する側ではないので、理想的な物が出てくることってそんなに多くないし、妥協するっていうのは全て悪いわけではないのだが。
ただ、そのラインがどんどん低くなっていっている印象がある。
まぁ声優でよく見るけど。特に初手がヘタパターン。
昔からこういうのは多いんだけど…というか、実は昔の方が初手ヘタ率って高かったのだが。
ただまぁ、それが許されなくなったのは、初期値だけは強くなったことと、今の時代初手が下手くそだとそこからあんまり上手くならない土壌が問題な気はする。
そんなことを気にせずにブシロードは箱庭したりするわけだが、数年やってどうなりましたか?という話である。
こういう元々下手くそ系というのは、そりゃ初期値が最初低いのだから、『最初よりマシになる』っていうのは当たり前というか…
皆さんは、パワプロとかプロスピとかしたことあるだろうか。やったことなかったらLv概念があるRPGとかでもいいが…(
大体パワプロのサクセスとかだと、初期値がGから始まる。
これがF、E、D…と能力を上げていくと変わっていくわけだが、GからFにするのは経験値少なくてもあっさりなるのだが、CからBとか、BからAとかは経験値がより多く必要で難しい。
こういう感じで、初期値が低い声優というのも、そりゃ最初が悪かったらそのときはマシだろうという形になるわけで。
そういうのを飛び越えて本当にしっかりとうまくなる例もなくはないんだが。
なくはないけど、それは絶対そうはならんやろっていうのにもそういうこと言い出すのでほんとダメ。ダメにはダメって言え。頼むからダメにはダメって言え。
まぁこういうのは何も声優に限った話ではない。
作曲する人間とか最近やたら持ち上げられているが、その割に提供側は本当に問わない感じがある。
せっかく良い楽曲作っても歌う側が伴ってなかったら意味ないと思うのだが…そういう話はあまり聞こえてこない。
というかめちゃくちゃ作曲家で売る。曲が良ければそれでいいだろ感を出す。の割に田中秀和楽曲は使わない。別に曲に罪はねえだろと思うんだが…まぁ罪状が罪状ではあるか…(
当ブログではエロゲを扱うことも多いが、エロゲに関してもマジでそういう所がある。
商業エロゲ系統に関してのやらかしというのは、お前ら会社としてどうなんだみたいな所があるわけであり。
7年エロゲ出ないとか、マスターアップしたのに延期してるとか、7年エロゲ出てないのにTwitterでヘラヘラしてるとか、マスターアップしたのにCGが一枚発売時未完成とか、クラファンでやらかすとか、VTuberに末期に媚びた上で最終的にエロゲから撤退していったり、3回延期したり…
本当にガバガバも良いところなのだが、やたらと延期に寛容すぎたり、発売までの経過を棚上げして褒め称えたり、まぁなんというか…それは盲目というか、都合の悪い所をやたらと見てないだけじゃんみたいな場合も多いわけであり。
妥協というか、見て見ぬふりというか…そういう傾向ってやたらと強まっているのではないか?と思う場面がある。
趣味でストレスを感じたくなければ、それこそ好きを疑わなければ
好きを疑え系…というか、良いものには良いと言い、悪いものには悪いと言え系統を言う時になんか色々言われるのが、趣味なんだからストレスなくやりたいとか、やり方は人それぞれとか、そういう話である。
まぁ言いたいことは分からないとは言わない。わざわざ趣味においてストレスなんか溜めたくはない。趣味ってなんだよって話である。ただでさえ仕事やら学校やら、日常生活でストレスが溜まることなんかいくらでもあるんだから、わざわざこんな所で…っていうのは分かる。
分かるんだけども。だからと言って、そのストレスになり得るモノというのを指摘しないというのは、今後的な意味でさらなる負担がかかってくるというのを理解するべきだと思う。
なぜ『好きを疑え』なのかと言えば、自分が好きなモノがずっと好きであり続ける為という言い方も出来る。
需要と供給でなんだかんだ成り立っている資本主義という世の中。その辺りはシビアに行きたい所である。
自分が好きであるモノが、そうではない方向に行かないかと監視しておかないと、趣味を失いかねない訳である(まぁそれがあまりにも自分勝手な方向での監視だとアレだと思うって話は後で多分する)
運営側にちゃんとしてもらう為には、ストレスが大きくならない為には、運営側がダメなことしたときには指摘をしないと、その方向性に流れてしまう場合がある。
オタクを相手にしている商売というのは、端的に言えばちょろいのである。やらかした所でなんかついてくるから。
だから、運営側がオタクを舐めているような設定にしたり、イベントをしたり、そういうことが起きるのである。
運営側だって、出来れば楽して稼ぎたい訳で。手が抜けるなら抜いてしまう所もなんぼでもあるわけで。
ものすごく悪い言い方をするのであれば、需要側が満足さえしてくれれば何でも良いのである。
という事はどういう事か?
オタクが妥協して満足する事が、業界が『この程度でも満足してくれるんだ』という判断をすることに繋がりかねない。
例えば、業界側が頑張って出せる最大のクオリティを100としてみよう。
これはあくまでも最大であって、こんなの作ってたら疲れるし、金も馬鹿にならんぞと。
もっと顔良いのをキャストにしてイベントで金回収したいとか、もっと安くアニメ制作したいとか、声優含め色々なギャラ抑えたいとか、正直思うことでしょう。
だから80とかでやるわけですよね普通、これで回せるみたいな感じで。
それが一時こう70とかで出しちゃう奴がいたりするわけで。問題はこの70の出来にたいしてオタクが妥協しちゃう事なんですよね。
「これでもウケいいじゃん」ってなるって事は、70でやれるほうが楽だし、金も浮くから、そりゃ70で作り出す所がいっぱい増えてくると。
これの繰り返しで、どんどんクオリティが下がっていくっていう悪循環を起こす。
これが、前述のオタクの妥協という所が悪い方向に進ませるという形である。
過剰な妥協…盲目と信者は、そのコンテンツや文化というものを腐らせる、極端に言えば殺人者なのである。
それが、さらなる悪循環を呼び続けるということを考える頭がない。
まぁこれはマジで馬鹿などうしようもない信者のパターンと、自分は信者じゃないですよの面構えをしておいて、やっていることはほぼ信者と同じなパターンがあるが。
これ前者は救えないのだが、言うて後者も救えない。というか後者の方が自覚がないからタチが悪いまである。
自分が好きな物が好きで居続けさせる為には、その好きな物が自分の好きな範囲から逸脱していないかを確かめ続かないといけない。
もう、勝手に見ているだけでも、自分の好きな範囲から逸脱しない優しい世界はとうの昔に終わっている。
「それは違うぞ、間違った方向に行ってるぞ」って言えるようにならないと、お前の好きなモノは好きなモノじゃなくなるを通り越して、全く別のモノか、なにかしら外部的なモノに乗っ取られて終わるのが、今の世の中なのである。
その危機感がないのだろう。人それぞれどうのこうのとか言っている人間の何割かは。
そうも言ってられない所まで来てますよと言いたい。
声優がなんか声優まがいの顔が良いのかも良く分からない奴に乗っ取られてかけてますよ。
あらゆる娯楽に、生主にアバターつけただけの連中に乗っ取られてかけてますよ。
そういう状態になっていることに気づかないといけない。
気づいていないのか、自分がそういうことを指摘されたくないのか、コミュニティ内で揉めたくないのか…
事実として大きく問題が横たわっていることを無視し続けることは、クソだと思うのだが。
ただ、批判も理由のあるものでなければならないのはそう
こういう時にいつも言われるのは、ただの文句と批判を同一として、『批判はゴミ!w』みたいに言われることである。
そういうのはただの文句であり、短略的な意見とも言えない所になるのではないだろうか。その判断というのが付かないというか。
それは肯定にしろ否定にしろ同じであり、好きを示すためには、なんだかんだ理由を提示しないといけない所があるし、「好き…」だけでは「あぁそう…」としか言えない所があるわけで。
嫌いにしてもただ「嫌い」とか「クソ」と言われても、何がクソなのかが分からなければ理解のしようがないわけで。
どちらにせよ、ちゃんとした理由であったり、根拠、事実関係等のいずれか、または複数がなければ意見としては成立しない。
逆に、これがちゃんとあるものはれっきとした意見であり、クシャポイ出来るようなものではないと思う。
しかし、この辺りの少なくとも短略的で感情的以外の要素もある意見も、一緒くたに特に批判することがクソ、のような風潮が流れているように思う。
なぜこの辺が一緒くたにされてしまうのかという所を考えていくと、現在のオタクの傾向という所が大きそうだ。
所謂盲信者と言われるような存在がこの辺りの事を否定する傾向にある。
このような真っ当な意見や、理由が付随しているものに対して『飽きただけ』とか『気に入らないだけ』とか『〇〇(大体的外れ)から否定しないと~』とか『人気だから嫉妬している』とか言い出すわけである。
所謂アイマスP等から出てきた、匿名はてな等による『お気持ち表明』という所も悪さをしているのかなと。
真っ当な意見に対して聞く耳を持たない、嫉妬ということにする、的外れと言う事にする…まぁこれも『好きを疑わない』典型的な例、まぁ一言で言えば”逃げ”である訳だが、
そして、アイマスP等による怪文書(勿論このお気持ち表明と認定された文章の中にも真っ当な意見は存在したはずなのだが…)によって、理由が明記されていようとなんでもかんでも、『長文批判は”お気持ち表明”』という風潮を生み出してしまった。
勿論『飽き』も存在するのだろうが、そんな事するようならついていけないよって話のときも『飽きてるだけ』とか言い出すからねホント。
それで見下しているオタクは相当見苦しいとか言うんだから救いようがない。真っ当な意見に対してそういう事を言う場合は…
自分の好きな物が傷つけられているという事実を受け止められないのかもしれないが、それが理由含めてしっかりと事実に即している場合は反発するのではなく、受け入れるというか、理解するべきだと思うのだが…まぁそれが出来たら信者にも盲目にもなっていないから仕方ないのかもしれない。
所謂逆張りオタクという存在も、批判に対しての嫌悪感を増させる全員の一つとなっているのではないだろうか。
批判系統はガバガバ理論で言っていいものではない。出来るだけしっかりと理由を提示し、納得できる事実、事例を並べなければならない。
端的に言えば、Twitterにちょっと長めの文字をスクショしてベタ貼りしてそれなりのRTが行っている奴の過半数はガバガバ理論も良い所である。
まぁこれはそもそもTwitterがそういう議論に向いていないプラットフォームっていうのもあるが。
だからまぁ、筋が通っていないガバガバ批判はむしろ批判されるべきである。
そのラインとかをちゃんと分かるようにならないといけないのだが…まぁそれを盲目とか信者に求めるのは難しい気がする。
まぁ逆張りは百歩譲って置いておいたとしても、理由や事実を明記した都合の悪い物も全て”悪”に認定することによって、自分が正しいと思い込むことが出来る…という構図は、まさにオタクが好きを疑っていないからこそ起きる事と言えるのではないだろうか?
昨今、誹謗中傷に関して、強い処置が取られるのが当たり前となりつつある。それは大変素晴らしいことである。
そういうものはできるだけなくしていかなければならないと思う。
ただ、それと批判というのは異なるという所は大切にするべきポイントでもあると思う。
しっかりとした批評というものは、存在し続けなくてはならない。
イエスマンしか存在しない状態というのは、物事がおかしな方向に動く大きな原因となり得るものだし。
なんというか、昨今の方向性として、出てくるのが偉い、作っているのが偉いんだから批判は許さないみたいな人間もゴロゴロいる印象があり、それはおかしいだろと言わざるを得ない。
日常の仕事でそんなに甘やかされたことないだろ。自分にとっては趣味でも、作っている側は仕事なんだぞと。
そして、趣味を壊すのもその仕事側なんだぞと。
良いモノに良い、悪いモノに悪いと言うだけのことはやってくれ…
そりゃ一定のモラルとか、線引は存在する。
しかし、良くないモノに「良くない」と口に出さないのは、破滅への道である事をいい加減に自覚するべきである。
責任感を持てとまでは言わないが、ある程度自分が好きなモノがそのままでいて欲しいなら行動は起こすべきだろう。
面白くなくなれば去れば良いとは思うが、それがあっさりすぎるのもどうなんだという話である。
万が一最終的に去る事になろうと、守る為に自分の目と頭を少しは使わないと、逃げる場所が無限に湧いてくる訳では無いんだぞと。
『Noと言える日本人になろう』じゃないけども、特に陰キャが多い(絶賛筆者陰キャ中)オタクにとって、たしかに「No」とは言いにくいけども、「No」という為にはちゃんと理由やらなにやらを明記して、しっかりとした意見にしないと好きな奴らからのバッシングが怖いけども、それでもやらないとお前が好きな物はどこかに行ってしまう。誰かに乗っ取られてしまう運命なのだ。実際にそうなっているモノはゴロゴロ転がっている。それを見て見ぬふりし続けることは破滅の道である。
邦画とかもう焼け野原である。
実際焼け野原になってるところは割と存在すると思う。
そういう事にならないために…っていうのは、消費者側からの限界はあるとは思う。
無能というのはどこもかしこも転がっているモノだし。
とは言え、それで何も声を上げないというのもダメだと思う。
好きなものは好きで良い。
最大限褒めたい気持ちも分からないとは言わない。
ただ、それはそれ、これはこれとして、ダメな所はしっかりと言わなければならないと思う。
そういうのが当然であって欲しいのだが…世の中はイエスマンばかり。
楽しくやっている人間に中指をこちらとしても立てたい訳ではないのだが、何も考えてなさすぎるからもうちょっと考えろやと言いたくなる。
その場のノンストレスと鈍感、見て見ぬふりは最終的に全ての娯楽を汚染していくというのを理解しなければならないと思うが…それが出来たら信者と盲目にはならないだろうし、この日本語が理解できることもないんだろうから、この7500文字って不毛だなと思う。
まぁ、かと言って嘘を言う日のエイプリルフールのことをガチで受け取って良くないとか言い出す皆目見当違いな視点が存在することが4/1で分かってしまったので、この記事の言ってることで真に受けてそういう皆目見当違いなことでごちゃごちゃ言われ出すのも面倒だなと思っている。
まぁ豚にどういう言うのは何にしても不毛なのかもしれない。
以上。